写真提供:国立科学博物館所蔵
濃尾大震災における当地方(2市3町)の被害状況について
まとめるにあたって
当地方において、過去、一番大きい地震と言えば、明治時代に起った濃尾大震災になります。
(南海トラフ巨大地震への備えがよく言われますが、私たちにとって、対象を濃尾大震災と言われたほうがピンときます。)
防災の上においても、濃尾大震災の再来への備えが重要であることは言うまでもありません。
そこで、先人に学ぶという観点から、濃尾大震災において各地の被害状況は実際のところどうだったのか、主に各町村史を参考にまとめました。
濃尾大震災 概要
1891年(明治24年)10月28日6時38分に濃尾地方で発生した、日本史上最大の内陸地殻内地震(いわゆる直下型地震)。 「美濃・尾張地震(みの・おわりじしん)」とも呼ばれています。 震源は、岐阜県本巣郡西根尾村(現・本巣市)、マグニチュードは M = 8.0 と想定されています。 死傷者数 死者7,273人、負傷者17,175人あまり、主に岐阜県美濃地方、愛知県尾張西部地方において大きな被害がありました。 この地震の特徴として、前震と思われる地震が3日前、前日と発生していました。
各地の被害状況
各地、同じような被害が発生したことを考えますが、実は場所によって発生状況がかなり異なります。
概要としては、次の通りです。
・全体としては、大きな被害は発生していないものの、街中の建築物の損壊が大きいです。
・倒壊戸数の割には、死者・負傷者が多くありません。(早朝からの農作業等で屋内にいなかったと思われます。また、前震の影響で地震発生時、すぐに家屋から逃げ出したという報告もあります。)
・農村部はほとんど被害がありません。
・火災の被害は、一部の除いてあまり多くありません。
・小牧市(当時:東春日井郡小牧町、外山村、境村、和多里村、味岡村、岩崎村、久保一色村、陶村、池林村、大草村、大野村、西春日井郡多気村、尾張村、子木村)
死者数 8名、重軽傷者数 56名、全壊 563戸、半壊 1126戸
全体としては被害は多くないものの、街中は被害大。
当時の記録:上の町、横町(小牧中心部)の如きは十分の九以上崩壊潰れ倒れ、岩崎村の藤の棚ほとんど崩壊。
・岩倉市(当時:丹羽郡岩倉村、島野村、豊秋村、幼村、千秋村)
岩倉村は震源地に近くではないにもかかわらず、30名以上の死者が出た町村。
また、街中の建築物の破損が極めて大きいです。(8割以上崩壊)
校舎が壊れたため、林に幕を張っての林間授業を行っていたそうです。
・扶桑町(当時:丹羽郡山名村、豊国村、高雄村、柏森村)
死者19名 全壊324戸 半壊279戸 破損等494戸
全村の家屋は殆ど倒壊あるいは半壊の被害を被り、南山名の顕宝寺もこの時に倒壊しました。
村内道路も所々に亀裂を生じ、交通上、少なからず支障をきたしました。
人々は余震に怯え、仮小屋を建てて暮らしていたそうです。
・大口町(当時:丹羽郡栢森村、富成村、小口村、太田村)
太田村 死者2名、全壊154戸、半壊176戸
小口村 死者4名、全壊348戸、半壊649戸
富成村 死者0名、全壊85戸、半壊232戸
家屋の多くが倒壊あるいは半壊の被害になりました。
・豊山町(当時:西春日井郡豊場村、青山村)
豊場村 負傷者0名、全半壊55戸
青山村 負傷者1名、全半壊34戸
ほとんど被害なし。
理由としては、春日井台地の裾野に当たるため、地層としては洪積層で地盤が固いそうです。
<参考資料>
小牧町史、岩倉町史、扶桑町史、大口町史、豊山町史
愛知県被害一覧
出典:愛知県「震害郡市別一覧表」 (明治24年11月12日調査) 単位:名・戸
出典:丹羽郡役所「震災に係る死傷者及び倒家十一月一日迄調概数」 単位:名・戸